「母の日」にちなんで私の母の事

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-Photo by Rio Lecatompessy from Pexels

日本の大型連休であるGWはそろそろ終盤というか、明けたんですかね?

考えてみれば、私がGWをカレンダー通りに休んだのは就職するまでだったなと。

アパレルの販売員に始まり、長い間サービス業の仕事ばかりをしていたので国民の祝日は私にとっては働く日、書き入れ時でした。

アメリカに住んでいれば当然GWはなく。

日本で少しの期間だけ、派遣の仕事でオフィスワークの経験はあり、その時はカレンダー通りに休みましたけど。

カレンダー通りの休みってどこも人が混んでいて、疲れるなと思った覚えがあります。

平日の休みに静かな街やショッピングモール、混んでいない行楽地に出掛けるのが好きでした。

それで、GWをどのように過ごしたかを振り返ると子供時代まで記憶はさかのぼり。

幼少期から10代の前半までは、祖父母や母親や親戚と旅行に出掛けたり、大阪に住んでいた父親のところへ遊びに行ったりして過ごし、10代の後半から就職するまでは地元の幼なじみや親友たちと遊び呆けていたかな。

幼かった頃はともかく、ティーンエージャーの頃、真剣に遊んでいたのは夏休みでしたからGWはそのプロローグ的な休みでしかなく、大して面白い事はしていなかった気がする。

父親の事を綴った過去記事はこちら。

それで、私の育った家庭は一般的な、お父さんとお母さんそして子供達が暮らす家ではなかったから、私も少々”一般”から外れた人に育ったのかもしれません。

物心ついた時には母も私も母方の祖父母の家で暮らしていて、父親は大阪で仕事をしており。

父親が大阪に行った理由は、地元より都会の大阪で友人と会社を立ち上げたかったから。

母親は私を連れ、何度か大阪に行きましたが「この場所で子育てはできない」と言って夫婦の間には亀裂が入っていき。

ちなみに母と父は恋愛結婚。

地元で仲の良い友人たちに囲まれ、祝福されて結婚したため、2人は共通の友人も多かった。


母は気の強い生粋の九州女子で、母方の家族の中では長男の役割を担っていたから、一種の責任感のようなものも感じていて、実家を離れるわけにいかないと思っていた事も、大阪には行かないと決めた1つの理由だったかと。

母は新しいものの考え方と、古くて保守的な考え方をする人でもありました。

その後、夫婦関係は破綻していたものの、父親が籍を抜くことを断固拒否したため、書類上だけは死ぬまで夫婦のままでした。

しかし、父親には気づいた時には一緒に暮らしていた女性がおり、母親には他界するまでにお付き合いした人が3人いて。

私も10代の頃は、なんだかんだと反発しましたが、大人になるにつれそんな感情も抜けていき、父親をのちに看取ってくれた女性と、大阪に行った際は食事や買い物に2人で出掛けたりするようになり。

母親がお付き合いした人とも、その都度、仲良くなっていって。

母は父と離れ、出会った一人目の方と再婚を意識したと言いますが、まだ小さかった私に「○○とおかーちゃんが結婚したらどうする?」と聞き、私が「おかーちゃんが取られるようで嫌!」と答えたから母は結婚を諦めたんだからね、とかなり後々までしつこく言われたんですよね。

けど結局、別れたし。

のちに母はこの方を「同志みたいな人」と言っていた。

1人目の方は、子供だった私をとても可愛がってくれて、私が成人し地元で夜遊びを楽しむようになってからも、何度か居酒屋などで遭遇してご馳走になったりしていたので、今いつ何時お会いしても、違和感なく普通に話せます。

2人目は、少々気難しいけど優しい方で、3人で映画を見たり出掛けたり旅行に行ったりしました。

しかし、精神年齢が私と同じくらいという感じでもあり、のちに母が疲れてしまったのかなと。

3人目は、エリートっぽい雰囲気の方で私はあまりなつけませんでした。

この頃、私は東京で働き、渡米を意識していたので、母の事を干渉する暇もあまりなくそのためか印象も薄い。

母は父が大阪に行った後、ホステスとして働き資金を貯めて喫茶店を開きその後、雀荘店に鞍替えしてその後また喫茶店に戻り、それからスナックを開店。

お酒は全く飲めない人でしたけど。

母がオープンさせたスナックは、開店したその日から大盛況で大行列ができ、それは整理券を渡さなければ入場できないというほどお客で溢れていたという話。

私は既にハタチでしたから、夜遊びの途中、友人を連れてちょいちょい覗きに行きましたが、まぁいつも混雑はしておりとにかく賑やかでした。

良いか悪いか別として、私は母親からいつも”お前は何もかもが強すぎるから水商売には向かない、水商売は務まらない”と言われていたので、スナックを手伝った事は1度もありません。

まぁ、夜のお仕事をしていたら大好きな夜遊びも出来なくなりますからね。それはそれで。

母親のスナックは遅くても1時頃には閉店していたから、私が夜遊びを切り上げる時間帯が合えば、母お気に入りの喫茶店で待ち合わせをして、一緒に帰ったりしていて。

私は人からよく「水商売してたの?」聞かれる事があります。

私に染み付いている何かが”水商売”を連想させるんでしょうね。

不思議。

子育てしながらも、割と自由気ままに過ごしてた母を、祖母(母の実の母親)はよく思っていない事も多く、とにかく2人はいつも喧嘩していて。

私が小学校の低学年の頃、実家を出て近くにマンションを借り住み始めた母。

その話はこちらの過去記事に。

そんな事でしたから、考えてみれば私は母親も父親も私の人生の中で、一緒に暮らした時間は多くなかった。

母親が住むマンションも、父親の住む大阪も行き来は自由にしておりましたけど。

祖母はとにかく厳しい人なので、息が詰まりそうな時は、母親の暮らすマンションに一切合切を運びしばらく住んでみたりはしましたが結局、幼なじみや親友たちが実家のあまりにも近くに住んでいたから、不便になり戻る出るを繰り返し。

ま、そんな暮らしの中で育った私なので、すんなりと自立する事も、良い人を見つけ結婚する事も自然に出来たのかなと自負しております。

今思い返してみると、いろんな意味で面白い環境で育ったなとしみじみ。

私の実家に住む人々は親戚もみな基本、陽気な人ばかりでしたからとにかく笑いの絶えない家でした。

人を笑わせる事も好きでしたから皆が、根っからの商売人だったのかなと。

そして、母には他界する前”結婚は合う人と合わない人がいる。おかーちゃんは合わない人だとつくづく思う。お父さんが籍を抜かなかった事は、おかーちゃんにとっては結婚を避ける理由にもなったから、結局良かったかな。そんなDNAとお父さんの変わったDNAを受け継いだお前だから気をつけないと”と言われたのでした。

母はもちろん、父が籍を抜かない事にずっと腹を立てており、父親の面倒を見ている女性にも申し訳ないと思わないのかと、文句も言っていたけれど父はのれんに腕押しだった。

私が夫との結婚の報告を父親に電話でした時、「いい加減、籍抜いたら?」と言うと、凄い剣幕で怒鳴られたので驚きました。

あんなに父から怒鳴られたのは生まれて初めてでしたから。

私の両親は、私の良き反面教師であったと思う。

母は短命でしたけど、人生を思う存分楽しんで逝った人だとは思うし、自分でもそう言っていた。

私にも会えたし、おかーちゃんの人生に悔いはないと。

今日は「母の日」にちなみまして、私が大好きでとても自慢だった母親の事、父親の事など綴ってみました。

お母さんはたくさん労って、よい母の日をお過ごしください♡

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